Taishin

競馬コラム  |  名馬伝説

17番人気の刺客が、 中山の坂を駆け上がった。

BNW・1993年クラシック世代・赤い稲妻の物語

SCROLL
01

怪物の弟が生まれる前に、
同じ厩舎にいた馬

1990年4月8日、北海道の早田牧場新冠支場で一頭の鹿毛が生まれた。父はリヴリア。リヴァーマン系の血を引く欧州由来の種牡馬で、日本でも産駒を残していた。母はタイシンリリイ。ナリタタイシンと名付けられたこの馬は、馬主・山路秀則氏のもと、栗東の大久保正陽厩舎に入った。

実はこの厩舎、後にもう一頭の歴史的名馬を出すことになる。1991年生まれの黒鹿毛、シャドーロールの怪物・ナリタブライアン——タイシンの一年後輩にあたるその馬は、後に三冠を制覇する。だがタイシンが活躍した時点では、ブライアンはまだ牧場の子供だった。「ブライアンの兄貴分」というポジションが、タイシンの隠れた立ち位置である。

「同じ厩舎に、二代続いてとんでもない馬が来た。タイシンが先に道を作り、ブライアンがその上を駆けた。」

生まれた仔馬は、特別な期待を受けていたわけではなかった。父リヴリアは中堅クラスの種牡馬で、母系も派手な実績はない。だがデビューが近づくにつれ、関係者の目には光るものが見え始めていた。中山の坂で見せる驚異的な末脚——それが、後に「赤い稲妻」と呼ばれる才能の片鱗だった。

✦ ✦ ✦
02

後方一気、中山の坂で
本領を発揮する刺客

ナリタタイシンの最大の武器は、後方からの一瞬の末脚だった。スタートから先頭を狙うのではなく、最後方近くに位置取り、4コーナーで馬群の外へ持ち出して大外一気。直線で他馬を一気に飲み込む——典型的な追い込み馬のスタイルである。

爆発的な末脚

直線で見せる脚は、世代屈指の切れ味だった。後方から先頭まで一気に駆け抜ける時の加速は、観客を席から立ち上がらせた。「赤い稲妻」の異名は、その一瞬の爆発から生まれた。

⛰️

中山適性

中山競馬場の最後の坂で真価を発揮するタイプ。坂を駆け上がる馬力と気合いに優れ、皐月賞や中山記念で見せた走りは「中山巧者」の称号にふさわしいものだった。

🎲

展開次第の不安定さ

追い込み馬の宿命として、展開とペースに左右されやすかった。ハイペースで前が止まれば届くが、スローだと届かない——その不安定さが、彼の戦績にムラを生んだ。

鞍上は、当時若き天才と呼ばれていた武豊。サイレンススズカ、メジロマックイーン、そしてナリタタイシン——平成初期のターフを彩った数々の名馬とコンビを組んだ。タイシンの後方一気の脚を引き出すのは、騎手としても極めて難しい仕事だったが、武豊は皐月賞でその全てを完璧にこなした

✦ ✦ ✦
03

BNWの三強時代、
そして17番人気の大逆転

1992

デビュー。
京都の新馬戦から始まる。当初は素質馬という程度の評価で、世代の主役候補とは見られていなかった。

1993 春

共同通信杯2着、弥生賞2着。
重賞で連続2着。徐々に存在感を示し始めるが、ビワハヤヒデやウイニングチケットといった世代の本命馬たちには、まだ一段格下と見られていた。

1993.4.18

皐月賞、17番人気からの大逆転。
単勝オッズ約34倍、ほぼ「無印」の状態で迎えた中山。直線で大外から猛烈な末脚——一頭、また一頭と前を飲み込み、最後はビワハヤヒデを抜き去ってゴール。「赤い稲妻」の異名が、この瞬間に生まれた。

1993.5

日本ダービー、3着。
府中の長い直線で末脚を伸ばすも、勝ったのはウイニングチケット、2着はビワハヤヒデ。世代の三強——BNW(ビワ・ナリタ・ウイニング)がここに完成。日本競馬史に残るクラシック三強時代が始まった。

1993.10

菊花賞、4着。
京都の3000m。長距離適性で勝るビワハヤヒデが圧勝し、タイシンは伸びきれず4着。短期間でのGI3戦目という過酷なローテーションが影響した側面もあった。

1993 暮

有馬記念4着。
世代の三強揃い踏みの中、強豪古馬たちの中で堂々と4着。3歳としては立派な走りだったが、勝利には届かなかった。

1994 春

屈腱炎、長期離脱。
産経大阪杯で2着の後、屈腱炎を発症。1年以上の長期休養を余儀なくされた。世代の中で最も繊細な脚を持っていたのが、皮肉にも彼だった。

1995 復帰

中山記念で復活勝利。
1年以上のブランクを経て、得意の中山で復活勝利。だが本格的な完全復活までは届かず、その後は精彩を欠いた。

1996 引退

通算15戦4勝、GI 1勝でターフを去る。短いキャリアの中、1993年4月の中山の坂で見せた一閃が、永遠の記憶として残った。

✦ ✦ ✦
04

なぜ「17番人気の皐月賞」は、
競馬史に残るのか

ナリタタイシンのGI勝利は、生涯でただひとつ。1993年4月18日の皐月賞だけだった。それなのに彼が日本競馬史に深く名を刻むのは、その一勝があまりにも劇的だったからだ。

17番人気・単勝オッズ約34倍——ほぼ「いないも同然」の評価から、世代の頂点をひっくり返す。これは、皐月賞というGIの中でも最大級の波乱として記録される。1番人気だったビワハヤヒデを、最後の直線で大外から差し切る——あの瞬間の中山競馬場の空気は、競馬を見続けてきた人々の中で、今も色褪せない。

そして1993年クラシック世代の物語は、それ自体が日本競馬史の宝石だった。皐月賞はナリタタイシン、日本ダービーはウイニングチケット、菊花賞はビワハヤヒデ——三冠を3頭で分け合うという、極めて稀な世代構成。三頭それぞれが個性的な強さを持ち、ファンを「推し馬」で分断した。これがいわゆる「BNW」の時代である。

たった1勝でも、そのレースが伝説なら、馬は伝説になる。

タイシンが、ビワハヤヒデやウイニングチケットほどGI勝利数で語られないのは事実だ。だが、競馬の魅力は数字だけでは測れない。「大穴で出てきた追い込み馬が、中山の坂で一閃する」——この絵柄は、競馬という競技の最も美しい瞬間のひとつである。それを最高峰の舞台で、しかも世代屈指の名馬たちを相手に演じてみせたのが、ナリタタイシンだった。

もうひとつ重要な事実がある。彼が所属した大久保正陽厩舎・山路秀則オーナーの馬主は、その翌年にナリタブライアンでクラシック三冠を成し遂げる。タイシンとブライアン——同じ厩舎、同じ馬主、ともに最高峰の舞台で歴史を作った2頭。タイシンが切り開いた道の先に、シャドーロールの怪物が現れたとも言える。血の繋がりこそないが、物語は確かに繋がっているのである。

Narita Taishin

17番人気の刺客は、中山の坂で一閃した。

たった一度の閃光が、永遠の伝説になることもある。