Origin
凱旋門賞馬の血と、
「ダービーに勝てない男」の願い
1990年3月8日、北海道で一頭の鹿毛が生まれた。父はトニービン。1988年の凱旋門賞馬で、欧州の良血を日本へ持ち込んだ重要な種牡馬だった。母はパワフルレディ、母父はノーザンテースト。ウイニングチケット——「勝利の馬券」を意味する名前を与えられた仔馬は、伊藤雄二厩舎に入った。
この馬の物語は、しかし、馬一頭で語れるものではない。鞍上に決まっていたのは柴田政人。1968年デビューのベテラン騎手で、JRAでGI複数勝利を誇る一流ジョッキーだった。だが彼にはひとつ、長年の「叶わない夢」があった。それは——日本ダービーのタイトル。
「ダービー馬になりたい」——柴田政人が、デビュー以来25年にわたり抱き続けた、たった一つの願いだった。
ダービーは騎手にとって特別な意味を持つ。「すべての騎手が、生涯に一度勝ちたい」と願う、競馬界最高峰のレースである。柴田は1969年からダービーに挑み続け、過去に何度も上位を走り、しかし最後の一押しが届かなかった。ウイニングチケットは、彼にとって何度目かの「悲願の馬」となる予定だった。
Character
力強く、しかし繊細な
「府中のための馬」
ウイニングチケットは、典型的なトニービン産駒の特徴を持っていた。豪快なフォームと長い末脚——広いコースで本領を発揮するタイプ。中山のような小回りより、東京や阪神の長い直線でこそ、その能力が開花する馬だった。
府中向きの末脚
東京競馬場の長い直線で真価を発揮するタイプ。広いコースで脚を伸ばすと、誰も止められない加速力を持っていた。ダービーの舞台のために生まれたような馬だった。
豪快なフォーム
トニービン産駒らしい、大きなストライドで一歩一歩を確実に前進させる走り。圧倒的なパワーがあり、競り合いになっても譲らない強さがあった。
繊細な脚部
力強さの一方で、脚元には不安を抱えていた。レース後の疲労が抜けにくく、過酷なローテーションには耐えられない繊細さも併せ持っていた。これが彼のキャリアを大きく左右することになる。
陣営は、ウイニングチケットの目標を早くから「日本ダービー」に定めていた。それは、馬の特徴が府中の舞台に合っていたこと、そして鞍上の柴田政人の悲願——二つの理由が重なった結果だった。ローテーションも、調教も、すべてが「5月29日の府中」を目指して組まれていた。
Legend
BNW三強の中で、
府中の頂点に立った一頭
1992 暮
朝日杯3歳ステークス、3着。
2歳GIで3着。BNW三強の中では3番手評価だったが、すでに能力の片鱗を示していた。
1993 春
弥生賞優勝。
中山のクラシック前哨戦を制覇。だが続く皐月賞は4着——舞台が中山で、彼の本領発揮の場ではなかった。
1993.4
皐月賞、4着。
17番人気のナリタタイシンに優勝をさらわれた皐月賞で4着。三強の中で唯一、皐月賞で大きく後れを取った。だが陣営は動じなかった——「本番はダービーだ」。
1993.5.30
日本ダービー、悲願の優勝。
府中、第60回日本ダービー。柴田政人がコーナーで馬群の中から進路を見つけ、直線で大外へ。豪快な末脚でビワハヤヒデ、ナリタタイシンを差し切り、堂々の勝利。柴田政人、デビュー25年目、19回目のダービー挑戦での悲願達成。レース後、ウイニングサークルで柴田は涙を流し、「ダービー馬になりたかった」と、絞り出すように言葉を発した。
1993 夏
脚部不安、菊花賞回避。
ダービー後、脚元に違和感。秋初戦の京都新聞杯にも出走できず、そのまま菊花賞も回避。三冠最後の舞台で、彼はターフに立てなかった。
1993 秋
天皇賞・秋6着、ジャパンカップ5着。
ぶっつけ本番に近い状態での復帰となり、本来のパフォーマンスは戻らなかった。それでも上位入線を続け、世代代表としての存在感は保ち続けた。
1994
復帰後、勝ち切れない日々。
天皇賞・秋3着、ジャパンカップ7着。GI戦線で上位走を続けるが勝利には届かず。脚元の不安と、ダービー以来勝てない苦悩の中、引退を決断した。
1994 引退
通算15戦6勝でターフを去る。GIは日本ダービーただ一勝だが、その一勝が、競馬史に永遠に残る感動の物語となった。
柴田政人
同年、騎手引退。
ウイニングチケットの引退と同じ1994年、柴田政人も騎手を引退。「ダービーに勝った今、もう思い残すことはない」——彼の長い騎手人生の集大成として、ウイニングチケットとの一勝が永遠に刻まれた。
Analysis
なぜ「たった1勝」が、
競馬史の名場面なのか
ウイニングチケットのGI勝利は、生涯でただひとつ。日本ダービーである。GI複数勝利のBNWの仲間たち——ビワハヤヒデ、ナリタタイシン——と並べると、戦績では見劣りする。それでも彼がBNW三強の中で特別な記憶として残るのは、あの一勝が「人間の物語」と完璧に重なったからだ。
柴田政人は、当時のJRAで「ダービーに勝てない名手」の代名詞だった。GIを通算15勝以上もしているのに、ダービーだけは届かない。これは騎手にとって、ある種の「呪い」のような状態である。「ダービーに勝てない柴田」というラベルは、彼自身を最も苦しめていた。
そして1993年5月30日、府中の直線。直線半ばで、ウイニングチケットは抜群の手応えで先頭に立つ。残り200m——柴田政人が、初めてダービーで「勝利を確信した瞬間」だった。ゴール後、彼はウイニングチケットの首をなでながら涙を流した。「ダービー馬になりたかった」——その一言は、競馬を観ていたすべての人の心を打った。
馬と騎手の物語が、これほど完璧に噛み合った瞬間は、競馬史でもそう多くない。
ウイニングチケットの戦績だけ見れば、「ダービー馬・ウイニングチケット」という1勝だけのGI馬である。だがその1勝は、25年にわたって積み上げられた一人の騎手の願いが結実した、「人馬一体」の最も美しい形だった。だからこそ、競馬ファンは今もあのレースを語り継ぎ、ウイニングチケットの名前を口にする。
そしてBNWの物語も、彼で完結する。皐月賞はナリタタイシン、日本ダービーはウイニングチケット、菊花賞はビワハヤヒデ——三冠を3頭で完全分割した、競馬史上極めて稀な世代。一頭が突出するのではなく、3頭の名馬が互いの強さを引き出し合った。これが1993年クラシック世代の、最大の魅力だった。
ダービー馬は、馬にとっての最高の称号である。だが時に、その称号は騎手にとっての最高の勲章でもある。柴田政人にとって、ウイニングチケットとの出会いは、長い騎手人生の集大成だった。1頭の馬が、1人の人間の人生を完成させる——競馬の最も美しい瞬間が、1993年5月30日の府中にあった。
ダービー馬になりたかった男のもとへ、勝利の馬券は、ついに届いた。
BNW三強の最後を飾る、人と馬の物語だった。